プロローグ

はじまりは...
遺影にしたろかな...などと、羅臼岳に登った妹から頂上写真が送られてきて...
やりとりしてるうちに、黒部下の廊下を歩こうよ...という事に相成った次第。
妹も長姉と同様に山んばで、ここ10数年の間に、北の山から南の山までを巡り登っている。
浜松に住む彼女と名古屋駅で19時半に落ち合い、雨模様の国道19号線を北上した。
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私の仕事は毎日昼寝が出来るアルバイトだが、この日は行事があり昼寝ができなくてやや不安。
恵那あたりで晩飯がわりにラーメン店に入り、スープまで飲み干したら妹にたしなめられた。
妹とふたりで出かけるのは初めてかもしれない....新鮮な違和感がある。
中津川までは国道19号を走ったが、ここからは高速に上がった。
早く着いて横にならなければ...気が急いてしまう。
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割と早めに扇沢に導かれた。
回送業者は7時ごろにくれば良いと言ってた。
朝まで十分ひと眠り出来る時間だ。
扇沢駅のトイレの至近のところに車を止めシートをフラットにしてベッドメーキング。
毛布をかけて一寝入り。
フラットに横になれる我が軽のバンに、妹は感動するそぶりを見せてはくれた。
外は予想外の冷たい雨と風だ。
明日の天候に期待するほかない。
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朝は雨が上がっていた。
1400mのここだが、紅葉の線はまだ2000mで、この辺りは黄葉といったところだ。
昨夜の雨風を引きずったくすんだ大気の中で、輝きを失っている。
予約しておいた回送業者に車を託し、扇沢駅発黒部ダム行き7時半のトロリーバスに乗り込んだ。
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黒部下の廊下に行くと決まってからは阿曽原温泉小屋のホームページを毎日覗いていた。
http://azohara.niikawa.com/news/
冬の雪崩などで壊れた水平歩道の桟道の、補修や架け替えも、毎年、この小屋のスタッフがされているようで、本当に頭が下がる。
この数日前のブログでは歩道の修復が完全に終了したことを告げていた。
また、下の廊下の情報はどんな事故の事例があり、どういうところでコースミスをしたかとかの、細かいところまで日替わりで載せて、ここを訪れる人々に注意を促している。

私の考えでは、事故は登山の習熟度や経験に関係なく、誰にも起きうるものだ。
確かに経験や技術によって防げる場合もあるだろう。
しかしベテランの人でも、ちょっとした油断やミスで命を落としているのである。
どこかにも書いてあったが、景色に見とれながら歩いては行けない。
立ち止まって見る、立ち止まって写真を撮る、これが原則だ。
歩くときは足元に集中して注意しながら歩く。
身につまされる話だ。
年をとると、ちょっとバランスを崩してのふらつきが堪えられなくなり、他愛もなくコケてしまう。
とりわけ、この黒部ではほんの少しのミスが死に直結する。
あの断崖を転落したらまず助からない。
そんなことを読んでは気を引き締めていた。



初めての黒四ダム

黒部ダムというキーワードでいろんな記憶が頭をよぎる。
ここに最初に来たのは1969年秋。アポロ11号が月面着陸を果たした年である。
せっかくだから、思いつくままに記憶をたどる事にしよう。
どうせありきたりの写真を並べるだけのブログだ。

私はその69年の初めに仕事で腰を痛め、そのうち、痛みで全身が硬直し、全く動けなくなった3月に止むを得ず入院した。
初めはベッドを逆傾斜にして、腰に重りをつけ24時間の牽引やマッサージなどで回復を図っていた。
逆傾斜はとても苦しく、若かったからまだ耐えれたが、今だったらとても無理だろう。
牽引を解いてマッサージに行くときは奴隷が鉄の重りを外されたような解放感があったものである。
マッサージ室からは近隣の山の向こうに真っ白な御嶽が顔を出していた。
マッサージの先生は、御嶽が綺麗に見えると2,3日したら雨が降るよと、御嶽の方を見もしないで仰った。
すると本当に雨が降ったのである。
マッサージ先生が教えてくれた言い伝えを、今は私が他人に伝えている...
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私が入院してどれだけもしないうちに、ブルドーザーの下敷きになって腰の骨を折ったN氏が担ぎ込まれた。
プレス機で手の指を何本か失った若いW氏も。
そんな風に、外科病室では、身体を駆使して日々の糊口をしのいでいるような人々が傷つき、ベッドをならべていた。
九州の炭鉱が廃坑になり、こちらに来たある初老の男性は、砕石プラントのベルトコンベアーに巻き込まれ左腕が、肩のところからちぎれそうなくらいの大怪我をした。
この病院で縫合手術を受け、クルミの実を弄びながらのリハビリを続けた。
そして、わずかに握力が回復しかけてきた。
それでも腕を失うよりはマシと喜んでいる本人や家族たちを見て、なぜか複雑な思いだった。
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病室は、介護の人も含め日常所帯生活の一部が病室に引っ越して来たような様相だった。
土方をまとめて飯場を仕切っていた、当時弱冠24歳のN氏は「らしからぬ」インテリで、語り口も穏やかだった。
病院に担ぎ込まれた時は全く身動きができず、ジッと上を向いたきりだった。
北海道から駆けつけた付き添いのお母さんは、いつも白い割烹着でかいがいしく愛息子の世話をしていた。
小料理屋か居酒屋でもやっているような小粋な方だったが、北海道の方言を隠そうとせず、いつも明るく振る舞っていて、周囲にとても人気があった。
寡黙なN氏とは対照的だった。
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2~3ヶ月牽引を続けたが、私の症状はなかなか好転しないので、結局手術をする事になった。
手術を終えて、ベッドで石膏の型にはまったまま、仰向けになって、天井ばかりをぼんやり眺めていたら、アポロが月に到着したというニュースが流れてきた。
遠い話でさしたる感慨もおきなかった。
それより、石膏の型にはまっている自分の体の節々が痛くて、それどころではなかった。

それから1ヵ月くらいしてようやく、私は退院する事になった。
腰は元に戻らなかったが、入院前の苦しさはもうなかった。
自分自身、これからどうしようとかは何も考えられなかった。
曖昧な若い時間だけが、体の壊れた自分の目の前にずうと続いているようで...
生きていくための確かなものを見出せないまま日々を過ごしているだけだった。
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一生をベッドで過ごさなければならないと噂されていたN氏は、奇跡的な回復力を見せ、歩行器で歩けるまでになっていた。
プレスで指を失ったW氏も2ヶ月経たないくらいで退院していたが、病室によく顔を見せた。
私も同じように退院してからも病室に顔を出していた。
夏の終わりころN氏も退院する事になった。
腰に頑強なコルセットをしながら、ほぼ日常生活的な動作はできるようになっていた。
ブルドーザーの下敷きになった人が、よくぞあそこまで回復したものだとみんな驚いたものだ。

N氏から、私やW氏に黒四ダムへ行かないかと誘いがあったのは彼が退院する直前である。
土木の仕事に復帰する前に黒四ダムをどうしても見ておきたいと言った。
何か期することがあったのだろう。
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黒四ダムへはその年の秋に訪れた。
アルプスの山峡の巨大なダムの上に立ってN氏はしきりに感嘆の声を上げていた。
多分私もそうだったとは思うが、自分がどんな思いを持ったのかは確たる記憶がない。
無くなった指の手に手袋をしていたW氏とは、黒四ダムに行って以後は会うことはなかった。

その後、しばらくしてN氏から連絡があった。
免許を持っているなら、現場までの人夫の送り迎えをしてくれないかと誘われた。
N氏の境遇への関心と、生き延びるためという安易な選択でその誘いに乗った。
そうして私は、開高健の「日本の三文オペラ」にチョッピリ似た世界に、一年ちょっと身を置く事になるのである。
山を登り始めるのは、また、その後のことだ.....
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私が若い頃、腰の手術をしたことは前述したが、実は妹も腰痛が悪化して手術を2回もしている。
あの苦しみは共有できている。


さて....

霧雨の黒部、覚悟を決め雨具をつけて外に出た。
幸い雨脚は強くなく、ほとんど霧雨だ。
妹は雨具から靴からスパッツまで新しく買い揃えたという。
...近くのお店の閉店セールでね...だそうだ。

7時半のトロリーバスに乗り、約10分くらいで黒部ダムに着く。
誰かが、このトロリーバスも今年限りと言っていた。
来年からは電気自動車に変わるのだとか、真偽のほどはわからないのだが...

晴れていれば...
ここからは左に黒部の巨人と言われるほどの岩壁を擁した丸山の頂が見えるはずだ。
正面には黒部の魔神と異名をとる黒部別山の、悪名高い破砕帯を孕んだ大岩壁、大タテカビンも...
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どんよりしているが、妹と一緒、久しぶりの黒部で心は少し浮き立っている。
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下る道を間違えてダム至近の展望台まで来てしまった。
こんなところ昔は無かった。
いやあったかも知れないが無関心だっただけかも知れない。
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扇沢のバスを待っている時に、弁当売りのお兄さんがやって来て、
「今日来られた皆さんは運がいい、放水サービスは日によって上の口と下の口からするのですが、今日は上の口からの放水だそうです。さあ、運のいい日、弁当700円、買ったり買ったり....」などとユーモラスに口上を述べていた。
どれだけ売れたかなぁ...
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谷底までは約二百米弱。
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ダムを下ってこの橋を渡る。
昔、梅雨時だったか、この橋が増水のため渡れず、八ヶ岳へ転進したこともあった。
その八ヶ岳では...
冬に遭難した遺体を運び出すパーティーに出合って、出鼻を挫かれたという記憶まで呼び起こされた..
あの時は、大同心北西稜を登ったなあ。
簡単そうなとこなら、どこでもよかったんだけど...
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これはなんの遺物だろう...
無関心を装いみんな通り過ぎてゆく。
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180m、名古屋のテレビ塔とほぼ同じ高さだとは思えない。
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ところどころ黄葉だが、雨のため色がくすんでいる。
先も長いのに、のんびりと写真を撮ってしまう。
妹はイラッとしているかも知れない。
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雨は霧雨で気にするほどのこともない。
この辺りは昔何度も通ったが、最後が70年代末期か....前の世紀のことは覚えていない。
ほとんど内蔵助出合までだったのに、今日はなんて長く感じられるのだろう。
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淡々と日電歩道は続く。
紅葉にはまだ少し早いが所々に、このような色とりどりのとこらがあり目を楽しませてくれる。
これが日射しに映えればもっと美しいのに....
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雨のせいでいろんなところに滝が現れる。
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圧倒的な岩壁を落ちてくる滝の前でたたずむ妹。
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滝というものも人の心を捉えるものだ。
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なかなか絵にはなるところだが俺の腕ではなんとも残念...
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やっと内蔵助谷出合。
ダムから長かったなあ...
昔の記憶ではダムのそばと思っていたのに...年はとりたくないものだ...

黒部の巨人と異名をとる丸山の岩壁がかすんで見える。
この谷を詰めれば明るく開けた内蔵助平を経てハシゴダン乗越を越え剣沢の真砂沢ロッジに至る。
本流の出合からはうかがい知れない...
死ぬまでに行きたいとは思っているが...



丸山東壁の思い出

丸山は、東壁、南東壁、2ルンゼなど無雪期に何本か登ることができた。
初めて来たのは73年夏。
パートナーは岳友N。
この内蔵助出合の少し上がった岩棚にベーステントを張った。
その頃、この辺りにベースを張っていた、東京の有力な山岳会のテントが黒部本流の鉄砲水に呑まれ、痛ましくも何人もの犠牲者が出たところだ。
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内蔵助出合にて 1973.7.27

Nも私も同人◯◯◯ポンでは新入り。
もっともNは前に在籍していた山岳会で、すでに岩登りの洗礼を受けていて、どこでも自在に登ることができる達人に見えた。
私は御在所でトレーニングしながら、穂高滝谷や、屏風岩の易しいところをやっとこさ登らせてもらったばかり、バリバリの新米だった。

Nの口車に乗り、黒部で初めて山行を共にすることになった。
丸山には大きなオーバーハングがあり、あぶみを駆使する人工登攀技術は不可欠だ。
御在所の前尾根フランケの前傾壁で、Nに人工登攀を教えてもらったりしたが、なかなかうまくならず不安を抱えての出発だった。

....確保さえしてくれればパートナーは誰でもよかった....Nの後日談である。
彼は丸山のような大きな壁で、思う存分に岩登りをすることに飢えていたのだ。
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翌日の朝一番に壁に取り付いた。
Nは、あぶみに乗っかってジタバタする私を確保しながら、のんびりとチューリップの「心の旅」を口ずさんでいた...

...あ〜 だから今夜だけは きみを抱いていたい...

いらだつ心を紛らわせていたのかも知れない。

しかし、この山行で強烈に心に焼き付いているのは、登攀そのものではなく、そのあとのビバークと下降である。
予定では、夕方までにベースキャンプにたどり着いていなければならないのだが、私がモタモタしたせいで思わぬ時間を食ってしまったようだ。
壁を終え下降路を求めて、かすかな踏み跡を辿りながら上を目指したが、喉が渇きって力が出てこない。
今なら脱水症状と大騒ぎしてたかもしれない。
行動食もとっくに食べ尽くし、夕暮れ、暗闇が迫ってくる頃、消耗しきった私達に残されていたのは、ファンタグレープの350ml缶(当時はそんな缶が主流だった)ひとつだ。
それを、高貴な薬でも押し戴くように、一口ずつ回し飲んだ。
そして着のみ着のままシュラフカバーに入り、観念したように地べたに直接寝転んでビバーク態勢に入ったのである。
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しかし、真夏とはいえ、ここは標高2000m近くのアルプスの山の中だ。
着の身着のままの薄っぺらいシュラフカバーでは、接地面から直接冷えてきて、よく眠れなかった。
ぐっすりと眠っているらしいNが羨ましく、規則正しい寝息を聞いているとシャクにも触るのだった。

明るくなるのを待って再び上を目指した。
しかし頂上付近の濃い薮のなかで忽然と踏み跡が消えた。
先縦者は皆それぞれ勝手な方に下っているのだろうか....
私達は途方にくれた。
半ばヤケになり、あるいは自分を呪いながら、水のある内蔵助谷の方に向かって、急峻な斜面のブッシュをやみくもにかき分けた。
すると断裂した壁の上に出くわしてしまった。
素手では下れない。
下から聞こえる谷のせせらぎ、あそこには永遠に辿り着けないのだろうか....どうすることもできない絶望感にとらわれた。
喉はもとより、口の中までカラカラに渇ききってしまった。
ややもすれば、舌がうわ顎や喉の奥にくっついてしまい、口を開けようとすることにすら何らかの意思の集中が必要な状況だった。
今でもあの時の、岳友Nの放心したような、うつろな表情が目に浮かぶ。
間違いなく私も同じような表情を彼に見せていたはずだ。
しばらくしてから意を決して、最後の力を振り絞り、ザイルをセットして懸垂下降をした。
しかし、なかなかザイルを回収する気力が出ない。
肩で息をしながらやっとの思いでザイルを回収して、再び降り始めると傾斜が緩くなり、ブッシュを抜けた目の前に、内蔵助谷のせせらぎがあった。
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私達はリュックザックをかなぐり捨てて、獣のような叫び声をあげてそこに飛び込んだ。
微妙に薄く濁った谷の水にかまわず、私達は顔を水につけて、夢中になって...たらふく飲んだのである。
真夏の太陽はすでに高く昇り、強烈な熱光射を放っていた。

...あの時は2リットルは飲んだろうな...Nの後日談...

未熟ゆえの失敗...今じゃ、酒の肴のヨタ話である...

これに懲りて次からは、計画的に水を持ち、丸山のピークから立山の方に向かい、コルから急なルンゼを降り、明るく開けた楽園のような内蔵助平を横切って下ることを覚えた。登攀を終えた身には結構長い道のりではあるが、充実感はあった。
最近では、終了点から懸垂で下降するのが主流のようだ...
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さて....

内蔵助出合を過ぎてオーバーハングした岩の下で朝食休憩をした。
雨が当たらなくて快適だ。
私は朝は食欲がないので、出発前には食べない。
出発して細胞が目覚めてくると汗をかき出すのでその頃が朝飯時になる。
小屋飯の時はそうもいかないが...

ナナカマド!
妹が歓声を上げた!
鮮やかに赤く染まった身をたくさんつけている木があった。
葉はまだ紅葉していない。
これが美味しかったらどんなにいいだろうと思うばかりの興ざめな俺...
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対岸の沢だったかな...
八千八谷(はっせんやたん)と言われる黒部...
私が覚えれるはずもない。
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川幅が狭くなる。
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この時期に残る巨大な雪塊!
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ほとんど氷塊だ。
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桟道の道、阿曽原温泉温泉小屋の人たちに感謝だ!
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新越沢出合の美しい滝。
検索すれば、ここを遡行するパーティの記録も散見される。
昔は一週間くらいかかると言われていたと思うが、今は2~3日で抜けているようだ。
私には及ばぬ世界である。
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雪渓の名残り、先行く人に続く。
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水平歩道は黒部の下の廊下の道、旧日電歩道だ。
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再び新越沢。
白い糸束のような滝が美しい!
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岩をコの字型にくり抜いてあるところは絶壁の上で、手摺りの代わりに太い針金、昔の言葉でいったら8番線かなあ...が、ずっと張ってある。
私はなるべくこの針金をつかんでいるようにした。
一つ間違えば即死、イテテテ..ではすまない。
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後ろを振り返ると後続者もポツポツとやってくる...
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多分、阿曽原温泉小屋を早立ちしてきた人達。
こんな所ですれ違い!
妹とは、桟道もなるべくひとりずつ渡るように、間隔をとって歩くようにしている。
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本流が狭まって迫力がある!
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こんなハシゴも、毎年、掛け直す所もあると思う。
整備をされれ方に感謝しかない!
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別山谷出合。
過去にはダムからここまではきたことがある。
雑誌に黒部特集があって、別山谷も紹介されていた。
それを見た岳師O氏が別山谷左股に行こうと誘ってくれた。
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別山谷出合 78.9.2

その時のアリバイ写真だ。
左股の途中でビバークし稜線に抜け、ハシゴダン乗越から内蔵助平を下ってダムに戻った。
別山の頂上稜線に抜けた頃から雨が降り出してきた記憶だ。
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現在ではこの左股右岸の大スラブも登攀対象になっているようだ。
ネット検索すれば記録が出てくる。
セピア色に褪せた、貧しい記憶も、俺にゃ人生の一部には違いない...
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で、今日は別山谷の雪もすっかり消えたところで....
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ロープにすがって谷底に降り、とび石伝いに対岸に渡る。
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皆さんはここで休憩しなさる。
前を歩いていたパーティもここで休むようなので、私たちはお先に失礼する。
普通、後ろから追いつかれたら..お先にどうぞ...じゃないかな...
そんなそぶりも見せない古強者パーティだった。
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日電歩道は続く。
黒部、下の廊下に憧れ愛する人は多い。
しかし、このような日電歩道のない頃に、この谷を愛した冠松次郎の偉業を知る人はどれだけいるのだろう...
かく言う私も彼の著作「渓(たに)」中公文庫を一冊きり持っているがまだ未読のまま積んである。
帰ったら読もう。
できたら「黒部渓谷」も手にしたいと思っている。
で、帰って「渓」を読んだら黒部の各ダムを山上湖と呼び、この建設のために黒部の谷が一変したことを例を挙げて記してあった。
その解説を書いておられるのは西堀栄三郎氏...
冠松次郎は健康をそこない山行をあきらめざるを得なくなり
「明治35年ごろから、昭和15、6年ごろまでの40年間に歩かれた山や渓谷を回想し、反芻することに、唯一楽しみを見出され...」
「黒部の紹介者としての冠さんの業績については今さらいうまでもない。山上湖が出現するに及んで、足しげく歩かれた黒部の渓谷は大きく変貌してしまった。その間、登山の技術や装備は大いに進歩したが、冠さんの業績を超える人はまだ現れていない、と言うのが私の正直な感想である」と結んでいる。
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近代登山、とりわけアルピニズムの発展の中で、渓谷に魅入られた冠松次郎も異端の人と言えるかもしれない。
山を味わい尽くすには、冠も言っているように、やはり渓谷の遡行をへて源頭部から稜線に至り頂きを踏むことにあると思う。
そして現代でも目を凝らせばそんな異端の人がいる。
そんな異端人達に敬意を払いながら、今日、私はささやかにこの道を歩いている。
私には適わなかったが、沢登りを愛する人たちがいてこそ、日本の登山に奥行きをもたらし、豊かにしているのだろうといつも思っている。
...とかなんとか、月並みな言葉しか出てこないのが残念...
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みんなこんな所で写真をとっているのだろうなぁ...
かくいう私も妹をモデルにしてみた。
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この辺りは白竜峡谷と言われるところ本流が狭まってゴルジュになっている。
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白竜峡、上に向かう人を後ろから盗撮。
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2度目の休憩。
妹からリンゴ、柿、梨の果物がふんだんに出てくる!梅の実をわざと傷つけて梅酒を作ったというその梅、ほのかな焼酎の香りを漂わせ、口中と食道に酸味とほっこり感が広がるわ!
もう雨は上がりカッパを脱ぐことにした。
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どこがどこかわからない。
地図を持ってくるべきだったと後悔先に立たず。
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いつの間にか渓谷の山肌から黄葉がなくなっている。
だいぶ標高を下げてきたのかな
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おお、やっと十字峡!
黒部本流に西から剣沢、東から棒小屋沢が合流するところ。
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まず妹が先行
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その間橋の袂から剣沢方面を撮る。
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剣沢の上に吊り橋がかかっている。
文字どうり十字峡である対岸の滝は棒小屋沢だ。
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もう二度と来れないかもしれないので、しっかり目に(カメラ)に焼き付けておこう。
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こちらは剣沢だ。
この上流には剣の大滝がある。夏は勿論、冬にも遡行する強者がいる、いた。
尊敬するしかない。
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剣大滝付近をショット2011.8後立山より

黒部別山の主尾根とガンドウ尾根の枝尾根が剣沢をはさんで、急激な角度で落ち込み、
印象的な鋭いV字形の切れ込みができている。
あの下に「幻の」と冠がつく剣の大滝があるはずだ。
剣沢大滝の遡行のルートはガンドウ尾根の急峻な枝尾根にルートが取られているはず....
この写真を撮った時は無関心な登山者の群れの中で、ひとり興奮してシャッターを切っていたっけ(笑)
しかし、7000円のデジカメのかなしさよ...
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剣沢
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今きた道を振り返った。
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作廊谷がどこかわからない情けないオレ...
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ここも絵になるのう!
ブログトップの写真にした!
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妹に感謝しつつ、おまけだ!
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日電歩道には昔資材置き場に使ったであろう岩小屋が何箇所かある。やむを得ない時のビバークにも使えそうだが、この道は野営禁止だ。
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S字峡も黒部の見どころの一つだが、油断大敵!
見とれる時は立ち止まって!と反芻する。
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ここにも岩小屋
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キャーッ、濡れる〜!
先を行く妹が悲鳴をあげた。
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意を決してシャワーに飛び込まなければならない!
ツメタ〜〜ッ!
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黒四発電所はこの山の地中にある。
黒四ダムの水はここまで導水トンネルを通り、落差を利用して一気に水を落とし発電機を回すそうだ。
その水はまた仙人ダムに貯められ欅平にある第3発電所に利用されるのだろう。
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この長い吊り橋を渡って初めて右岸に入る。
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美しい滝だ!
雲切谷か仙人谷か、俺にはどうでもいっか...
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仙人谷ダム
吉村昭「高熱隧道」の舞台となったところだ。
これも帰ったら読み返そう。
「高熱隧道」について私は別に思うところがあるが、とりあえずこの方のブログも面白いので貼り付けておこう。
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日本の水力発電も原子力発電が増えて稼働率が低くなっているそうだが...
福島の事故を経験している(現在進行中!)日本が、その収束の目処もたたないうちに原子力発電の再稼働を進めているというのは、無慈悲というしかない。
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建物に入った瞬間、温泉というか硫黄の臭いがする。
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欅平から黒四に通じるトンネルは、ここから左岸から右岸に移る。
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この辺りは暑くて、高熱隧道かくやの感がある。
最高は岩盤温度が160度を超えたということだが、沸騰しているヤカンの温度はせいぜい100度。
素手ではとても触れるものではないということがわかる。
すでに人間の生存できる環境ではなかったということだ。
ダイナマイトも自然発火するはずだ。
今は岩盤に冷却水を通して40度前後にまで落としてあるそうだ。
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高熱隧道も「人智」を尽くして完成させるのだが、美談ばかりで語ってはいけないと思う。
300人以上の犠牲者を出したもいう。
国策、国の為という強引さで庶民の犠牲を合理化してはいけない。
戦争も同じである。
というか戦争遂行のための国策だったのである。
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どこが権現峠かわからない。
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水平歩道から仙人谷ダムに一旦下り建物内の登山道という稀なところを通り抜け、外に出ると立派な宿舎があった。
その片隅から再び水平歩道に上がり、阿曽原温泉小屋に向かうことになる。
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あれに見えるは奥鐘山ではないか?


ダさい蛇足...自戒をまぜて

今日の行程もほぼ終わりに近ずいた。
阿曽原温泉小屋が近ずくとまた水平歩道から下ることになる。
もう危険なところはないはずだった。
ここに落とし穴が待っていた。

なんでもない下り坂のところで、私の左足が石ころに引っかかって、前向き、うつ伏せに転んでしまった。
一旦両手で受け止めたのだが、下り坂で全体重以上の負荷がかかり、そこにリュックが頭の上に移動してきた。
哀れ、私の腕は持ちこたえることができず、ぐにゃりとつぶれ、左目の前にあった石ころに軽く当たってしまったのである。
その石ころには苔が生えててショックは大きくなかったものの、下まぶたがわずかに切れ血が滲んできた。
私は、腕がぐにゃりとつぶれて持ちこたえられなかった方がショックだったのだが、妹は私の顔を覗き込んでなんともせつない表情を浮かべた。
そして手鏡を出して見せてくれた。
目の周りにアザができ、白目も真っ赤に充血してきて、まあ、なんてお顔になってしまったんでしょう!
これじゃお岩さんだな...
幸い視力には影響はないようだ。

妹は絆創膏を取り出して貼ってくれながら、ストック使えばよかったねぇ..としきりに悔やんでいる。
その間、何人かの人が追い越して行きながら、私の顔を覗き込んで、小屋の人を呼んできましょうか...などと声をかけてくれた。
必死で、それだけはやめてください、自力で歩けますからと断った。
そんなことを頼む自分が、情けなく、恥ずかしいったらありゃしない。
ひとしきり休んで、気持ちを落ち着かせて歩き出したら、小屋からひとりの方が心配そうに上がってきた。
大丈夫です、ゆっくり下りますから、どうか先に行ってくださいと「お願い」した。
すぐ阿曽原温泉小屋に着いた。

到着は16時50分。
すでにたくさんのテントも張られている。
受付の時、小屋の方から、明日朝は早く発った方がいいと言われた。
なぜならこの秋の週末は、黒部のトロッコ電車は観光客でいっぱいになり、欅平にもドット人が押し寄せる。
そうなると宇奈月に遅く着けば、観光客の帰りの便と重なりすぐには席の取れないことがある。
午前中早い時間に欅平につく方が良いとのことだ。
なるほど...一理ある。
さらに畳み掛けてくる。
朝食は5時から...しかし明日の朝食を頼まれた方は7人しかいません。
あとは皆さん弁当です。弁当は1,000円。
妹と顔を見合わせ、じゃ、弁当なしでいいかな。
行動食が残っているし、ということで、夕食一食付きで8,500円。
夕食のカレーは美味しかった。
妹はお代わりをしたが私はしなかった。
山では疲れてるせいか、夜たくさん食べると下痢しやすいのだ。
その代わり朝食を食べるときは無理してでも詰め込むスタイルだ。
夕食後、妹は暗い中、ライトをつけて温泉へ浸かりに行った。
私は温泉はやめた。
私たちの部屋は2号室。
最後の空き部屋だった。
その後も人がやってきて2号室も埋まった。
布団一枚にふたり。
私がいない間に、女子同士、男子同士をペアに、夫婦、兄妹のペアで部屋をシェアすることになっていた。
まあ、なんて合理的!
その夜は疲れていたのかいつもよりもぐっすり眠れた。
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さらに蛇足 スケベ爺さん対策

昔は小屋泊で着替えをする人はあまりいなかったように思う。
しかし時代が変わり皆さんマメに部屋着に着替える。
しかし、そこにウラ若い女性が混じり、タンクトップ姿になって着替えたりされると、はっきり言って、スケベ爺さんは嬉しい!
しかし、爺さんにも体面があり、ジロジロと露骨に眺めるわけもいかず、目のやり場に困ってしまうフリをしなきゃいけなくなる。(今年も、阿曽原温泉小屋ではないところで、遭遇した。よくあることだ。)
で、残念ながら、男性女性をできるだけ別々の部屋にするとか、女性のためだけにじゃなく、私のような正直なスケベ爺さんにも配慮していただくとありがたい。
以上、小屋を運営される方に切にお願いしたい!
混み合えば混み合うほど皆さんに喜ばれること間違いなしと確信している。


もう一つ...
阿曽原温泉小屋主人、佐々木さんの講演録


未完の黒部体験...下の廊下(2)に続く