...1から続き...
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青春の墓標というか老人の墓標というか...
山にも行かずこんな事ばかりをやっている。
終活といえば、まあそうである。
このアルバムも早いとこK君に返さなくては...
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新穂高岳スキー場78.1
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上同
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ダイナランドスキー場78.3
(Kはスキーが得意だ)
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御在所中尾根78.7
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上同
(京都登攀俱楽部O氏撮影)
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錫杖岳前衛フェース左方カンテ78.5
(多分N氏と登ったね。私は親分と2-3間のリッジというかフェースというかを登った記憶。ハングした烏帽子岩の下で快適なビバークをしたっけ。翌日はNに見守られながら3人であの大ピナクルの烏帽子岩を登ったね!あれからちょうど40年だよ!冗談みたい(笑))
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黒部川の渡渉78.8
(奥鐘の壁のアプローチは、日電歩道を歩いて夏になお雪に埋もれている志合谷を下るのが通例だった。そのうちに、この壁のリピーターたちが黒部川を遡行しはじめて大幅な時間短縮が明らかになり、我々もそれにならった。ある日釣り人と出会ったが、彼らはあっという間に飛び石伝いに上流の方に消えるのを見て舌を巻いたものだ。)
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上同
(この時は4人で中央ルンゼを目指した。数ピッチ登ったところだった。仲間が落としたソフトボール大の石がKのヘルメットを直撃した。Kはパニックになった。幸い肉体的なダメージはなく、Kが落ち着いたところでアッサリ下降することにした。)
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 上同
(黒部川に向かって下降するK)
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奥鐘山敗退後宇奈月の駅前で朝の大宴会が始まる
(朝の大宴会とは!? 今ならあり得ないね。警察に通報されていてもおかしくない。入山当日の奥鐘敗退で、戻った宇奈月の駅前駐車場でゴロ寝したようだ。全く忘れていた。当然、前の夜から自棄酒を飲んでたはずで、朝からまたやっていたのか!?若かったとはいえ呆れてしまう!良い子は決して真似しないように...)
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(で、その勢いで帰りがけに富山のどこかで適当に海水浴。すると沖の方で鯨の尾ビレらしいものが見え隠れした。ジョーズ!とか叫んで慌てて砂浜に這い上がったなぁ..なつかしい笑い話である)
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新潟 海谷山域 船浦山東壁 (第2か3スラブ)78.9
(ここを開拓した故池学氏の記事をみて早速出かけたのだった。この地域特有の火山性の岩質である)
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上同
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上同
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上同
(下降は送水管の階段を延々下ることになる)
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上同
終了後小滝の酒屋で
(おばさんの大昭和フアッションがいい味出してる!帰りにスェーデン人のヒッチハイカーを乗せてブロークンの英語で四苦八苦...一枚の写真にいろんなことが甦る...)
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この写真にはキャプションがない。79年頃だろう、穂高の滝谷を遡行したときのものだ。出会いから滝谷を見上げれば遥かな高みに滝谷の象徴ドームが見える。(この写真にもかすかに見える)
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(雄滝や雌滝をどう越えたか記憶がない。この写真は多分滝場を抜けたあたりだろう)
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(ゆっくりというよりチンタラと休み休み登り続けて....)
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(やっと第4尾根のスノーコルにツェルトを張ってホッとした途端に雷雨に見舞われた。
宵闇を切り裂く稲妻に縮みあがりながら、ずぶ濡れになって撤収し、暗い中を北穂小屋に逃げ込んだ。そのときには雨が上がっていたが最早外に出る気力はなかった。
小屋番に何か食べさせてくださいとお願いしたら..
今ごろ何言ってんだ!
と雷が落ちてきた!
でも何か食べさせてくれたような気がする...
小屋番は髭面のコワモテだったが情に厚いところもある方だった。)
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(結局小屋に2泊もすることになる。
この時はハイシーズンで、食堂のテーブルを隅っこに積み上げ、布団を敷き詰めて1枚の布団に2人が寝るようなすし詰め!男女御構い無し!トイレに立つと自分の場所はなかった。隙間に体を挟んで適当に場所を作り朝までじっとしているしかなかった...高度の影響で頭が痛かったり、人いきれで熱くて息苦しかったりの一夜だった。)
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(翌日はバンドを辿って一尾根を回り込み満員御礼状態のP2フランケに取り付いた。Kは親分と早大ルートに取り付き、Nと私は芝工大ルート登った。)
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(スッキリした感じの早大ルート。それに比べて芝工大ルートは...
ガラ場だな..とNが呟いたのが今でも耳の底に残っている。)
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(ジェードルルートに行けば良かったと思っても後の祭り。取り付き点も違うし...
先行パーティーに散々待たされ、終了点でKたちと合流した頃は、それでもまだ日は高かった...)
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(終了点は滝谷の岩場の只中。とりとめない話で時間をつぶした。お互いここを去り難かったのかもしれない。私にとって結局のところ滝谷はこの時が最後になった。
写真はP2の終了点から撮ったと思われるドームだ。)
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(北穂山頂のK)
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(北穂の小屋のテラスで一杯。)
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(これは翌朝下山の前だね。)
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(北穂のテン場が見える。)
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(北穂から奥穂高方面を見たところ。オレのウエストがあまりにも細いので笑える。
この頃は体重57kgウエストも72cmぐらいだった。今じゃ...)
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(涸沢岳から北穂への稜線。痩せている上に浮いた石も多くなかなか危ないところである。
行き交う人々で混雑するところをコースアウトしながら追い越して行ったら、お前らなんのつもりだ!と怒鳴られた。)
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(全力で飛ばして穂高岳山荘着)
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(Kが腰掛けている親分の色あせたサレワのザック、憧れだったな!
おいらはこの頃黄色のドイツ製シュナーブルのザックだったんだな。岩登り用のハンスワグナーのクレッターシューズがザックに縛ってある。
山の登り下りはズックだったがズックでも岩登りにはさしつかえなかったのだが...
スニーカーなどはまだ出来たての言葉だった。運動靴とかズックというほうが親しみやすい世代だ)
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(一応、空身で奥穂高の頂上は踏んだ。ロバの耳、ジャンダルム。)
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錫杖岳前衛フェース3ルンゼ80.3
(3ルンゼは大きなV字ギャップのところ、日帰りが可能な冬錫杖の入門ルートだ)
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(この時は富山登攀クラブだかクライマースクラブと前後しながら登った記憶がある。)
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(岩場を抜けてギャップへ抜ける雪壁を颯爽と登るK)

Kのアルバムはこの写真で終わっている。
懐古趣味とか、昔自慢はなんだかなあ...と思う。
しかし、ハナから自慢できるものは何もない。
野ざらしの墓標が風の吹くまま朽ち果てていくような...
私の内の消えかかる記憶の残骸に過ぎない。
それを渇ききった瞼の裏側にやっと映し出してみただけのことだ。
それは誰にも邪魔されない自分だけの幸せなひと時ではあった。
タイムマシンの写真を貸してくれたK君、そして岳兄Sさんにも感謝したい。

K君、韓国から帰ったらアルバム返すからね。